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秀樹が湯川家の養子となった理由

仁科芳雄往復書簡集所収の手紙に

 以前から疑問に思っていた、跡取りのある湯川家がなぜ、湯川(小川秀樹)を養子として迎えいれたかということが、湯川が仁科に出した1940年2月5日付けの手紙(『仁科芳雄往復書簡集 III』みすず書房、2007年)に書かれていました。

 手紙の内容は、阪大から京大に移って間もない頃に持ちあがった東大転任の話について、うけることが容易ではない旨を書き送っているものです。

 まず、阪大から京大に移って間もないため、少なくとも3年間は動けなく、それ以降、研究といことからは、原子核、宇宙線の研究の盛んな東京にゆくことは、メリットはあるが大学卒業後数年間世話になった阪大を離れ、また、母校京大をも去るということは忍びがたいと書いています。

 さらに、家庭の事情として、スミ夫人の兄蜻洋の実母は早く世を去り、その後今の母が来たので、亡父玄洋とは大分年も隔たっており、亡父が秀樹を養子にしたのは主として自分の死後も長く母を見とってほしいとの趣意だった、と説明しています。したがって、なるべく大阪付近に住むようにとの希望もあった、とも述べられています。[引用者 T の注:ここのところは湯川の手紙の原文がかなり長く引用されていましたが、著作権を考慮して、要点のみに変えました。]

 この年(1940年)京都へ通うのに少しでも楽なよう、苦楽園から甲子園口へ転居し、1943年には京都へ転居しています。このあたりのことは、スミ夫人の『苦楽の園』にも書かれています。

M [01691] (100213)

そういう事情がなければ

 M さんは鋭い疑問を持っておられたのですね。そういう事情がなかったとすれば、Yukawa potential は Ogawa potential などなど、となっていたのですね。

T [01692] (100214)


Tag: 湯川夫妻 スミ夫人 小川秀樹 湯川玄洋 湯川蜻洋.仁科芳雄往復書簡集


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Last-modified: 2014-05-05 (月) 13:33:08 (1087d)