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仁科講義に関する記述

『旅人』にある記述

昨日の10月定例会で、Dさんが湯川の仁科講義に関する記述があれば教えてほしいといっておられましたが、『旅人』の「転機」の章中、大学を卒業してからの三年間について記した部分に、外部の学者による臨時講義が大きな刺激であった話があり、次のように書かれています。(改行、行開けも原文のまま。)

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 …(略)…中でも、特に仁科先生は、私たちに最も大きな影響を与えた。

 …(「コペンハーゲン精神」という言葉と、仁科のコペンハーゲン滞在についての短い1パラグラフを省略)…

仁科先生の講義は、単なる量子力学の講義ではなかった。先生は、ボーア博士を中心とする、当時、最も優秀な理論物理学者の一団の、全体にただよっていたコペンハーゲン精神を、私たちに伝える媒体でもあった。
コペンハーゲン精神とは何かと、開き直って聞かれると、私はいまだに的確な答えができない。しかし、この精神が寛容の精神と相通じるものを持っていたことは確かである。自由放任主義の教育を受けてきた私は、その点に一番心を引かれた。が、そればかりではなかった。仁科先生その人に私は引かれたのである。人見知りの激しい私も、仁科先生にだけは、何でも言いやすかった。自分の生みの父親の中にさえ見出すことのできなかった「慈父」の姿を、仁科先生の中に認めたのかも知れない。

私の孤独な心、閉ざされた心は、仁科先生によってほぐれ始めたのであった。

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T

マイルストーンとして意義あるもの

どうもありがとうございます。

   「慈父」の姿を仁科先生の中に認めた

というくだりは、印象に残ってたので、私も一度は読んでいたんだと思います。

それにしても、湯川、朝永両氏の記述から考えるに、このときの仁科の臨時 講義は、講義の内容もさることながら、コペンハーゲンの雰囲気を日本に 持ち込んだ点は中間子理論誕生に直結するものではないものの、ひとつの マイルストーンとして意義あるものであったんでしょうね。

D

朝永から見た仁科の講義

仁科先生の滞在期間は一ヶ月ほどであったと思う。しかしその短い間に先生のわれわれに与えた印象は、まったく強烈であった。
その講義は物理的肉づけと哲学的背景をたっぷりもったものであって、今までもやもやとしていたことがらもそれを聞いたとたんに明確になる、といったものであった。それにもまして、講義のあとの論議は忘れられないものであった。

(わが師・わが友 「自然」1962年10月号『鏡の中の世界』)

D

仁科の湯川への示唆

「ボーズ統計を満足する電子」を考えては?

[00320] 7月の定例会でSさんからご紹介のあった、湯川と八木の面談の機会となった昭和8年(1933)4月の学会で、湯川は生れて初めての研究発表「核内電子について」をしています。このとき湯川はスピンや統計の性質上無理と知りながらも、ハイゼンベルクと同じく電子場を核力の場として取り扱おうとしていたこと、そして、この学会の席上で仁科から「ボーズ統計を満足する電子」を考えたらどうだろうと示唆され、もっともだと思ったことが『旅人』に書かれています。

私は湯川と八木の面談の『旅人』の記述を紹介したメール [00300] を書いたとき、上記のところもさっと読んだはずですが、注意していなくて、二つの本から回り道をして、きょう、そこを再読した次第です。

一つ目の本は、Tian Yu Cao, "Conceptual Development of 20th Century Field Theories" (1997, Cambridge Univ. Press) で、

核力あるいは一般的な相互作用の理論に関する転換点は湯川の仕事 'On the interaction of elementryparticles' (1935) によって与えられた。

として、湯川が1933年に電子の交換による不成功な試みから研究に着手したが、

幸いにも、仁科がボソンの交換を考えれば困難を解決出来るだろうという、よい示唆を与えた。

と記し、引用文献として早川の論文を挙げています。

その早川の論文は二つ目の本、L. M. Brown & L. Hoddeson, eds. "The Birth of Particle Physics" にあり、"The development of meson physics in Japan" という題名です。その中の "The first paper on meson theory" という節の冒頭に

湯川が核子間における電子交換の発表をした際に、仁科がボーズ粒子の交換を考えれば、スピンと統計の破れの困難が解決されるだろうとコメントした。

とあり、『旅人』の引用はありませんが、私はそういう重要なことが『旅人』に書いてないはずはなかろうと思って読み直した次第です。

早川の文とそれを引用したカオの文では、『旅人』の記述よりも仁科の示唆が大きく浮かび上がっている感じですが、その示唆は、内容から見て、湯川にとってかなり大きなものだったことには間違いがないかと思われます。

T

仁科芳雄往復書簡集

論文の出る前に朝永が湯川に送った手紙

 以前紹介した仁科芳雄往復書簡集が届きました。30分くらい走り読みをしました。

 33年の5月(論文の出る1年前)の朝永が湯川に送った手紙も掲載されてました。ハイゼンベルグのJに様々な形を仮定して計算したことが書かれています。「有効距離の理論」というのがあります。今の目で見れば当たり前なのですが。Jの形には鈍感なことを発見しています。そして、湯川型を仮定するとλがどのくらいの値なら実験値を再現するかというようなことも議論しています。なかなか面白いです。

 他にも湯川が仁科に宛てた手紙、その逆、仁科が一般向けに湯川理論と当時の実験の様子を解説した原稿なども載っていました。

O

仁科から湯川への手紙

 『仁科芳雄往復書簡集』は貴重な資料集ですね。たとえば、これに掲載されている仁科から湯川へ宛てた手紙(全文、直筆)のコピーを科学館で昨日(2010年2月13日)展示しました。この手紙は、自身の理論を酷評された湯川が、その不満を仁科に書いた手紙への返信で、 仁科は湯川粒子を発見したと書いて、湯川を励ましたものです。

 一方で、仁科は同時に共同研究者には、新粒子の質量同定にはまだまだ作業が必要と書いています。仁科の湯川に対する一方ならぬ愛情を感じさせるとても興味深いエピソードと思います。 真理追究という科学の最先端の場、非常に厳しい場と思うのですが、そんな場でも、真理を曲げてでも弟子を励ますとは…。こんなことを思いながら、仁科の筆跡をときどき鑑賞しています。

 手紙の背景は科学館の「月刊うちゅう」に書きましたので興味ある方はご笑覧下さい。

http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~saito/job/writing/utyu/yukawakaika1.pdf

http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~saito/job/writing/utyu/yukawakaika2.pdf

S [01693] (100214)


Tag: 仁科芳雄 旅人 八木秀次 コペンハーゲン精神 ボーズ統計 ボーア 手紙 月刊うちゅう


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  • S さんの 2010.2.14付けメールの前半を「仁科芳雄」のページの最後に入れました。 -- T 2010-02-17 (水) 17:16:17
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Last-modified: 2010-02-17 (水) 17:30:07 (2687d)