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[関連ページ] 湯川秀樹ノーベル賞受賞までの学問的時代背景 湯川のノーベル賞受賞までの背景


シンポジウム・プロシーディングス原稿から(ただし、プロシーディングスはモノクロ印刷)。
イメージが、置いていたサイトの長期的障害により出ません。
近日中に、当サイトに直接置くように変更しますので、しばらくお待ち下さい。

 

 チャドウィックによる中性子発見を受けて提唱されたハイゼンベルクの原子核構造論とフェルミのベーター崩壊理論を経て、湯川の中間子論(1935)が現れるまでの経過を、湯川自身の言葉を中心に紹介する。

 
ハイゼンベルクの原子核構造論(1932)
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ハイゼンベルク

 「[中性子発見当時の物理学者たち]の中で、新しい原子核構造論を、一番体系的に展開したのは、ハイゼンベルクであった。…私はさらに一歩先へ、そしてさらに奥深くふみこんで行こうと決心した。」――湯川秀樹『旅人』

ハイゼンベルクの原子核模型:

 水素分子イオン (H_2^+ ) は、2個の水素原子核(陽子)が1個の電子を交換しながら結びついてできていることから類推(下図参照)。

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ハイゼンベルク模型の欠点:

 「電子を中性子、陽子間のキャッチ・ボールの球とする考えには、いくつも無理があった。第一、電子のスピンとか統計とかいう一番基本的性質が、すでにキャッチ・ボールの球として不適当であった。」――『旅人』

 「中性子と陽子は、今の言葉でいえば核子というものの二つの違った状態なんだともいうわけです。他方では、中性子というのは陽子と電子の寄り合ったものだということもいうてるんです。私も大いに混乱させられました。」――湯川秀樹「ベータ崩壊の古代史」(講演)

 
フェルミのベーター崩壊理論(1934)
 
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フェルミ

 「…私は新着雑誌の中に、フェルミのベーター崩壊の理論に関する論文を発見した。読んでゆくうちに私の顔色は変わったにちがいない。…フェルミは、[私の知らなかった]パウリの考えに基づいて、ベーター崩壊の理論を展開したのである。」――『旅人』

パウリの考え:

 ベーター崩壊の際、電子あるいは陽電子とともに、ニュートリノ(中性微子)と呼ばれる粒子が一緒に出ていて、これがエネルギー保存則を満たすに必要なエネルギーを持ち逃げしている、というもの(下図参照)。

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フェルミ理論の湯川への影響:

 「私はこれを読んで、直ちに考えた。陽子や中性子が、しじゅう電子と中性微子の一対をやりとりしていると考えたらよいのではないか。」――『旅人』

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陽子や中性子が、しじゅう電子と中性微子の一対をやりとり
この考えはイワネンコとタムが1934年に研究

 「[これと同じ考えによる]タムとイワネンコの結果が間もなく雑誌にあらわれた。しかしその結論は否定的だった。この否定的な結果が、私の目を開かせた。核力の場に付随する粒子を、既知の素粒子の中に、さがし求めることはやめよう。」――『旅人』

 
中間子(「けったいな粒子」)の理論へ
 
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湯川秀樹

湯川の発想:

 「十月初めのある晩、私はふと思いあたった。核力は、非常に短い到達距離しか持ってない。それは、十兆分の二センチ程度である。このことは前からわかっていた。私の気づいたことは、この到達距離と核力に付随する新粒子の質量とは、たがいに逆比例するだろうということである。
 あくる朝、さっそく、新粒子の質量を当たって見ると、電子の二百倍程度になることがわかった。」――『旅人』

けったいな粒子=中間子:

 1933年4月、東北大学で開催された日本数学物理学会の折に、湯川が中間子の着想について、木切れで地面に式を書きながら、「強い力の説明はできたが、けったいな粒子が出てくるわ」と朝永に語った。このことは、『朝永振一郎著作集』別巻1の「中間子論が出たころの思い出」という文に記されている。この「けったいな粒子」が、翌1934年には「U粒子」として実を結び、のちに中間子と呼ばれるようになる(論文が学会誌に掲載されたのは1935年で、正式には、このときに中間子論が誕生したとされる)。

中性子と陽子は中間子を仲立ちに引き合う:

 物理学者ジョージ・ガモフは、中間子を媒介として中性子と陽子が引き合うという湯川の考え方を、2匹のイヌ(中性子と陽子)が好物の骨(中間子)を奪い合って離れない様子として分かりやすくたとえ、それを漫画にも描いている[『ガモフ全集 第10 物理の伝記』 (白楊舎、1962)]。

 

 【お断わり】湯川秀樹著『旅人』などからの引用はスペースの都合で所どころに省略・変更をしている。省略は「…」で、変更は「[]」で示した。また、シンポジウムのスライドでは、ガモフの描いたハイゼンベルク、フェルミ、湯川の似顔絵を使用し、ガモフの中間子を骨にたとえた漫画も引用したが、本プロシーディングスでは、著作権を考慮し、似顔絵の代わりにこれらの物理学者の肖像の載っている切手のイメージを使用し、中間子のたとえの漫画は割愛した。

 

Tag: 中間子 ハイゼンベルク フェルミ 原子核模型 旅人 キャッチボール 記念切手 けったいな粒子 ベータ崩壊


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Last-modified: 2009-10-30 (金) 08:06:19 (2797d)