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中間子論提唱は苦楽園在住時

「ベッドの中で着想した」と関係

 昨日[06年9月定例会]のONさんの発表にありました西宮市の「湯川記念事業」ですが、湯川と西宮市の関係については、発表時には「西宮に湯川の別荘があったため」 といわれていました[。しかし]、同市の同事業に関するホームページには次のように書かれていました。

http://www.nishi.or.jp/benri/00001134.html
 湯川秀樹博士が、日本人として初めてノーベル賞を受け、その受賞の対象となった「中間子論」を提唱したのは、苦楽園二番町在住時でした。<中略>市では、これを契機に中間子論が本市で誕生したことを、市民をはじめ内外に広く知ってもらうとともに、文教都市西宮の誇りにしようと、昭和61年から理論物理学研究者による「西宮湯川記念事業運営委員会」を組織し、「西宮湯川記念事業」を発足させました。

 湯川が苦楽園に住んで、そこから大阪帝大に通っていたというのが、湯川と西宮を結ぶつながりであったと思われます。また、「中間子論が本市で誕生した」の意味は、湯川のエピソードとして新聞記事にも[あった]「ベッドの中で着想した」というくだり[と関係があります]。西宮市に住んでいて、「中間子論はベットの中で着想した」と述べておられたら、西宮市が「中間子論は我が街で誕生した」と主張するのは妥当であると思われます。

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かつての別荘地・避暑地

 湯川博士の『旅人』には、

・・苦楽園といっても、今はその名を知っている人は少ないであろう。大正のある時期には、一時、阪神間の高台にある別荘地、避暑地として、繁盛したことがあった。私どもが移り住んだころには、もうさびれていた。・・・

と書かれており、ONさんは、この別荘地と言うところを勘違いされたのではないでしょうか。この後に続く文章で、苦楽園に引っ越す前の夏に、養父の療養をかねて家を借りて住まわれ、別荘的に一夏を過ごされました。その結果、養父が大変気にいられて空いていた土地に家を建てて、そこへ引っ越され、苦楽園より大阪大学、京都大学へと通われたようです。

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当初は別荘として

 苦楽園のことをもう少し調べようと、スミ夫人の『苦楽の園』を見たところ、スミ夫人の年表に次のような記述がありました。

昭和九年(1934) 24歳(スミ夫人の年齢です) 苦楽園に別荘を建てる。次男 高秋生まれる。秀樹、中間子に関する論文作成。・・・ 昭和十二年(1937) 27歳 苦楽園を本宅とする。

本文によると昭和九年三月棟上げとなっています。この後、昭和十五年に甲子園口へ転宅、昭和十八年に京都へ転宅となっています。したがって、昭和十二年までは別荘として住まわれていたことになります。上記でONさんの勘違いかと書きましたが、訂正させていただきます。

M

湯川秀樹の生い立ちマップ

『旅人』ゆかりの地

 Google マップに、『湯川秀樹の生い立ちマップ』という『旅人』に出てくるゆかりの地が、マッピングされているの見つけました。下記からアクセスできます。

  http://bit.ly/9ooczO

 しかし、すべてが正確なわけではなく推定、もしくはこのあたりではないかという地点が表されているようです。中間子論を構想した苦楽園の旧宅は、違う場所が示されていました。

M [01724] (20100506)


Tag: 湯川家 中間子 苦楽園 苦楽の園 環境 地図 マップ 生い立ち


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最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 「湯川秀樹の生い立ちマップ」の章を設けました。 -- T 2010-05-09 (日) 10:52:19
  • Mさんが会員宛メールに記されていた苦楽園旧宅の修正図は、現在の所有者の方に配慮して削除しました。 -- T 2010-05-15 (土) 16:29:03
Counter: 6281, today: 1, yesterday: 0

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Last-modified: 2010-05-21 (金) 07:08:23 (2594d)