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[関連ページ] 湯川と平和運動


湯川の講義、学会発表

「もう一度始めから聞かせて下さい」

 私は3回生後期に湯川さんの量子力学の講義を受けました。湯川さんの声は大きくはなく、本ならば脚注に書いてあるような話や余談のところでは、一段と声を下げられたので、そのあたりは全く聞き取りにくかった記憶があります。それでも講義内容はほとんど、その少し前に発行された『岩波講座 現代物理学』中に書かれた通りだったので、それを開いて聞いておれば、支障ありませんでした。湯川さんは長い式でもノートなどを参照することなく、すらすらと黒板に書かれたものです。

 小林稔先生も、湯川さんの中間子論の学会発表は聞き取りにくかったので、質問のときに、「もう一度始めから聞かせて下さい」といった人がいたという話をしておられました。私が教養コースの「物理学C」を習った田村松平先生も、桑原武夫他編『湯川秀樹』の中で、湯川さんの声の小さかったことを書いておられます。

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湯川研だけ助教授2名、学生数も一番多かった1959年

 1959(昭和34)年の「物理学教室、教室会議構成員名簿」(注:構成員は教授から修士1回生まで)というガリバン刷りのものをまだ持っています。湯川研だけ助教授が2名、学生数も一番多いです。これも湯川さんの一端を知る参考資料になるでしょうか。

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ブログもご参照を

 学生時代に私が母にあてて出した手紙に湯川さんの印象を書いたものがないか調べてみたところ、ほんのお名前を書いた程度のものがあるだけで、印象というほどのものを書いたものは見つかりませんでした。ともかく、それらの手紙を引用したブログ記事を三つ書きました。

「湯川さんの講義」
「ある同期生」
「湯川さんたちが笑っても」

です。ご笑覧いただければ幸いです。

 「ある同期生」とは湯川さんのご子息のことですが、先日友人から、ご子息はもう亡くなられたと聞きました。

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素粒子論の高度な内容をユーモラスに

 最近(2006年4月)の私のブログに、大学生時代に私が母へ送った葉書文を連載していますが、1957年6月21日付け(私が4回生のとき)の葉書に

 昨日、教室談話会という名目で、物理教室全体の人々を対象とした湯川先生のお話がありました。胃病もよくなられた様子で、素粒子論の高度な内容をユーモアを交えながら平易に説明されました。

とありました。残念ながらお話の詳しい内容は記してなく、覚えてもいません。当時は、新しい素粒子が次々に発見されながらも、陽子や中性子の内部構造についての理論はまだなく、素粒子がこんなに沢山見つかっては素粒子とはいえない、何とかしなければならない状況だ、という意味のことを折につけて話しておられたことは記憶していますが。

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大学の授業で先生が話されました

「湯川先生に憧れていました」と

 毎週月曜日、私の通っている立命館大学の1回生物理科配当の「ミクロとマクロの世界」という授業があります。二人の先生が受け持っていらっしゃるんですが(物理科を真っ二つに分けての授業展開)、私は運良くも、GUT(Grand Unified Theoryだったかな)を研究なさっている先生の授業を受けています。残すところ、今日もいれたら後2回となった今日、先生は、ご自分のお話をなされたのです。

 京大理学部で学んでいて、ちょうど4回生の時に、湯川先生が退官なされました。退官をされた後も、湯川先生は基礎物理学研究所の館長をされており、僕は23か24だったけど、そこの研究所に特別研究生として数年いました。湯川先生は、僕にとって雲の上の存在です。僕は湯川先生に憧れていました。君たちも誰でもいいので憧れをもってください。

 そうそう、先日、都ホテルに行ってきてね、ここで、何十年か前に30歳前の湯川先生とボーアが会ったのかと思うと、何とも言えない気持ちになったよ。

 昔、イギリスの首相が、日本人は西洋のまねごとをしてるだなんて言ったんだけど、あの首相はバカですよ。イギリスの科学者がレーダーについてその首相に論文を持って行って、その首相はえらく感激したらしいが、その論文は八木さんが書いたものなわけだしね。くりこみ理論だって、朝永先生なわけで。この理論の計算は、防空壕の中で行われていたんだよ。・・・

 多少の聞き間違いはあるかもしれませんが、こんなことをお話ししてくださいました。いつも質問などはしているのですが、一度、湯川先生のことについて訪ねてみようと思います。

SM

 [注:SMさんの間違いを修正して引用しました。(T)]

湯川の微笑ましい一面

スミ夫人へのインタビュー記事から

 私は物理学者の話しぶりや書きぶりでいえば、朝永さんやファインマンさんが好きです。(T)

 私も同じような意見です。どうも湯川さんの文章はなにか居住まいを正して読むことを求められているような、そんな感じがして「読むのがしんどいな」と思っていたころもありました。

 しかし、この研究会で調べものをしていくうちに、いろいろとおもしろいというか、微笑ましい(?)一面も見つけました。

 9月の例会で発表したノーベル賞受賞当時の新聞で、スミ夫人へのインタビュー記事の一部です。

  朝日新聞12月8日 「寝る間さえ惜しむ 湯川博士の努力伝える夫人」より

<略> 湯川は自分の考えがうまく進展して行かぬ時には大変気をくさらせて、弟子たちのいる所へ帰りたいと申す時もあり、日本の皆さまが雑用のためゆっくり研究する時間のないのを伺っては、自分ほど幸せなものはない、今の間に考えたいことを考えておこうと喜んだりしております。<略>

 奥さんにしか語れない描写だと思いました。

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「湯川語録」を作り始める

関西弁に思想+人柄が滲む

 「けったいな粒子」という言い回しが物理的な考え以外に湯川の心情も出ていて愉快ですね。[中間子論の着想参照]

実は、そうした面白い湯川の発言を集めて「湯川語録」を作ろうと、ぼちぼちと集め始めています。

 湯川に関する本を読んでもすぐに内容を忘れてしまうので、印象深い言葉をとどめておこうと思い立ったのですが、小林秀雄との対談や梅原猛との対談など、関西弁の湯川の言葉が、湯川の思想+人柄も滲ませているようです。

 また、中間子論以降の湯川の仕事である素領域のアイデアについて熱く語る言葉もあり、ちょっと感動的です。

 天才の中の凡人の部分を失言?の中から見つけたという私の個人的な悪趣味もありま す。

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「語録」試作版

 [00572] 私が個人的に面白いと思った湯川博士の語録を作ってみました。背景の説明が不十分ですが、図書館で借りた本から拾った言葉なので すぐに説明を追加することができません (もう返却してしまったので) 。似た内容の発言ごとに色分けしてみました。出典が偏っているので年代を網羅できていないのですが、年代をたどって湯川博士の思想の変遷がわかるようなものに仕上がれば面白いと思っています。

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率直・辛辣なことばが多く入っている

 Nさん作成の「湯川語録」は、率直な、あるいは辛辣なことばが多く入っていて、なかなか面白いと思いました。

 なんらかの形で公表するとよいような気がしますが、そのためには出典の著作権者の許可が必要でしょう。著作権者が出版社でなく、湯川さん自身の場合(ほとんどそうなっているかと思います)、スミ夫人亡きあと誰になっているのでしょうか。湯川さんの次男夫人(長男は早くに、また、次男・高秋さんも湯川さんより先に亡くなられたようです)か、お孫さんですか。

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「語録」充実版

 [00611] 湯川語録に少し追加しました(ゆかわ2.xls)。シンポジウムではポスター展示してはとのご提案をいただいたので 是非、壁際を汚させていただきたいと思っています。(ちょっと細かい字が並んでしまうので、数を絞り込むとか展示方法は考えます。)3月までにもう少し内容を充実させたいところです。

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湯川アルバム

基研からの写真パネル製作用データをもとに

 基研から写真パネル製作用のデータをいただき、今製作中です。
 このデータをもとにアルバムを作りましたので、ご覧下さい。[copyright material か]

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湯川、ソフトボール大会でアキレス腱切断

 アルバム中の写真「アキレス腱切断 ソフトボール大会で、湯川はヒットを打ったものの、一塁まで走ったところでアキレス腱切断。2ヶ月ほど研究所を休むことになる。京大農学部グラウンドにて、1956年ごろ」ですが、1956年ならば、私が大学3回生の春頃のことで、この年の秋に湯川さんの量子力学Iの講義を聞いたことになります。そう思って見ると、この写真の湯川さんは、まさに私が記憶している頃の顔をしておられます。ソフトボール大会は物理教室の教官と大学院生による研究室対抗のもので、湯川研究室は基礎物理学研究所との合同チームだったのでしょう。

 同じソフトボール大会の1958年度のものに私は出場しました。湯川さんは先の大会でこりられたか、出ておられなかったと思いますが、私と同期で、新しく出来た核理学科におられた湯川さんのご子息が、基研・核理学科合同チームの一塁手として出場しておられ、そのチームは私の所属していた木村研究室チームを決勝戦で破って優勝しました。(私が06年5月にブログに掲載した1958年6月の母への手紙に、このソフトボール大会について書いてありますが、湯川さんのご子息にはふれていません。)

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荒木不二洋氏の「湯川先生の思い出」に

 ソフトボール大会の写真について、湯川秀樹著作集の月報8の中に荒木不二洋氏が、 「湯川先生の思い出」という文章を寄せられています。荒木氏は当時、湯川研の大学院二回生だったそうで、

大学院二回生になってすぐの五月十八日、湯川研で東西対抗のソフトボールをすることになり、農学部グランドへ行った。湯川先生も参加されたが、腕に自信があるようで、はたしてボールを外野を越えてかっとばされ、一塁を越えて二塁へ走られた。しかし、二塁への途中で足をくじかれ、皆で支えて基礎研へお連れした。当時、湯川先生は原子力委員会の委員をされていたが、翌日だったかその翌日だっかの新聞には、湯川先生が「胃腸の病気」で原子力委員会を欠席された旨の記事が出ていたのを思い出す。  と書かれています。

 奥様のスミさんの『苦楽の園』によると、その年の1956年には、ご夫妻でスイスのジュネーブ、ドイツのリンダウ、スエーデンのストックホルム、イギリスを経てアメリカに渡り、会議、講演会をこなされ、9月の末に帰国されてい ます。そこには、足の怪我については特に書かれていないのですが。

 アキレス腱切断の話のソースをご存知の方はいますか。

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そのころ湯川研究室は22名の大所帯

 ソフトボールは湯川研の東西対抗戦でしたか。1959年度(私が修士課程2回生のとき)の「物理学教室・教室会議構成員名簿」(わら半紙にガリバン刷り;教室会議構成員は修士課程1回生以上、教授まで;物理学教室は8研究室からなる)を見ると、湯川研は最多の22名(うち2名は海外留学中)を抱えていますので、卒業研究のために分属した学部4回生も加えれば、その頃は、交代要員も十分にいる東西対抗戦が湯川研だけで出来たわけです。ちなみに、次いで教室会議構成員が多かったのは小林稔先生の原子核理論研究室の18名、その次に木村毅一先生の原子核実験研究室(私が所属)の15名となっています。湯川研、小林研には、どちらも博士課程3回生の上に旧制大学院生3名の名もあります。

 写真説明の、アキレス腱を切って2カ月も休まれたというのは、少し不自然で、胃病もあって休まれ、原子力委員会の欠席理由にはそちらを表に出されたのでしょう。私が母に宛てた翌1957年の6月21日付け手紙に、「昨日、教室談話会という名目で物理教室全体の人々を対象とした湯川先生のお話がありました。胃病もよくなられた様子で、素粒子論の高度な内容をユーモアを交えながら平易に説明されました」と、「胃病」の記述があります。これより先の1956年度後期(10月から2月末頃まで)に、私は湯川さんから量子力学を習いましたので、そのあとでしばらく、56年前半の胃病を再発しておられたのかと思われます。

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アキレス腱切断の話のソース

 「湯川博士と大阪大学」大阪大学湯川記念室編(2004年2月)という冊子に

1956年ごろ、ソフトボール大会で。京大農学部グラウンドにて。室田和香(理論物理刊行会元職員)の回想によると、このときヒットを打って一塁まで走った湯川はアキレス腱を切り、2ヶ月ほど研究所を休んだという。

とありましたので、これをちょっとだけぼくが書き換えました。

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室田さんの「湯川博士の思い出」

Google で検索すると、室田和香さんの湯川博士の思い出というページがあ りました。

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どちらが正しい?:転倒の場所

 荒木さんは「一塁を越えて二塁へ走られた。しかし、二塁への途中で足をくじかれ」

 室田さんは「安打を一発! 皆の拍手歓声の中、一塁を目指して『急がれた』のはいいのですが、途中で転倒」

と、お二人の記憶は細部で違っていますね。ソフトボールについては男性の記憶の方が確かではないかという気はしますが、いかがでしょう。一塁への途中で転倒したのならば「安打性の一発」であっても「安打を一発」とはいえない点においても、室田さんの記述の確かさが揺らぎます。

 室田さんの「ノーベル賞をもらうほどの脳みそが一杯詰まった頭の重さに、朝夕、車で送迎の上、昼間はほとんど椅子に坐ったままの弱った足が負けたのでしょう」という記述で、湯川さんのある朝の出勤風景を思い出しました。その日、湯川さんは寝坊でもしたのか、タクシーで物理教室へ到着し、物理学科3回生への講義がおおむねそこで行われた、独立した一部屋の建物の外にいた私たちの前(休憩時間だったのか、あるいは湯川さんの量子力学講義に先生が来られないので教室横の戸外で雑談でもしていたのか)を、遅れてきまりが悪いという表情で通り過ぎ、研究室のある建物へ入って行かれました。私は湯川さんがその日乗って来られたのがタクシーだったのを見て、「送迎の専用車はないのだろうか、まさか他の日には電車通勤ということもあるまい」と思ったのでした。

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弟子たちが述べる湯川の印象

生き生きした好奇心を持つ人

 私より数年早い195*年に京大物理学科を卒業し、一時私と同じ職場にいたHさんに、湯川さんの印象を尋ねていたところ、先々週、彼女たちの物理学科同期会があり、他の方がたにも聞いて知らせて下さいました。以下にそれを紹介します(Hさんのご希望により、実名は伏せています)。

 I氏:一番印象に残っているのは、実験後、あまった液体窒素を水溜りに流して、沸騰する中で氷が出来る様子を見ながら遊んでいたら、後ろで「面白いねえ」と声がして、湯川先生も面白そうに眺めていました。何にでも、生き生きした好奇心を持つ人だな、と思いました。

 K氏:コロキユウムでD君が論文紹介をしたときに、湯川先生が質問され、その答に対して先生が「自分は頭が悪いからなー」といわれたことが印象に残っています。

 Hさん:私は母と湯川先生にお会いしたことがあります。そのとき湯川先生が母にいわれたことば「親にとって、いい子は自分の思っているようになってくれる子で、自分の思うようになってくれない子はいい子でない」が印象に残っています。私が大学院に進むことに対しておっしゃったのですが、先生のお子様のことにも通じることばではなかったかと考えています。また、クリスマスにAさんの発案で風船割りをしたこと、ソフトボールの試合に参加されたことなど、いろいろ楽しんでおられた様子が目に残っています。

 後日、Hさんへのメールで資料を届けられた方もあり、それは別途紹介します。

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風船割りのこと

 ソフトボール大会の写真についての話題のときに湯川秀樹著作集の月報8の中に荒木 不二洋氏の『湯川先生の思い出』という文章を紹介しましたが、その文章の中にクリスマス・パー ティのことが、写真と共に紹介されています。

 十二月になり、この廊下(注 当時の湯川研は大所帯で廊下にも机を並べて勉強していたそうです。その廊下のこと)でクリスマス・パーティをしようということを我々一回生が提案し実行に移した。湯川先生の挨拶によると、これは湯川研にとって前にも後にもない大事件であったようだ。・・・湯川先生も風船をふくらませてお尻でパチンと割るゲームなどを非常に楽しそうにしておられた。

 Hさんの思い出の風船割りと同じ時のことかどうかわかりませんが、そこに紹介されていました写真を添付します。写真は、パスワード付の圧縮をかけています。パスワードは、湯川の会のホームページの会員ページへのパスワードと同じです。

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スミ夫人の思い出

「秀樹さん」のことだけを一番に考えて

Hさんの思いでの風船割りと同じ時のことかどうかわかりませんが… (Mさん)

 荒木不二洋氏が書かれた風船割りの思い出は、Hさんの思い出と同じときのものだと私は思います。そう推定する理由を書くと、Hさんから貰ったご感想の紹介方法についての約束に反しかねませんので、理由はご想像におまかせします。

 湯川さんの秘書をしておられたSさんがスミ夫人についての思い出を書かれたメールを、このたびHさんが転送して下さいました。Hさんは京大物理学科同期会で先般京都へ来られた折に、Sさんにも会われ、Hさんの学生時代に、口さがない学生たちの間で、スミ夫人が「京都の三大悪女の一人」といわれていたことを思い出して話されたようです。以下にSさんのメールから、思い出の部分をご紹介します。

 スミ夫人のことは、悪妻といわれていらっしゃった時がありましたが、私はそんなふうには思いませんでした。その頃の「妻」のあり方の感覚が古風だっただけです。スミ夫人は「秀樹さん」のことだけを純粋に一番に考えていらしたと思います。だからスミ夫人の口から出ることばの中にどれだけ「秀樹さん」が出てきたことでしょう。そして尊敬していらしたから、湯川先生の亡き後も、核廃絶への取り組みに最後まで努力なさったのだと思います。

 この後、もう少し率直なご感想が続きます。ただ、「あなた(Hさん)だからいいますが」ということばがありますので、決してよくない話ではないのですが、引用は差し控えます。

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Tag: 講義 学会発表 人となり 関西弁 けったいな粒子 基研 湯川夫妻 スミ夫人 湯川スミ 湯川評 ボーア


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Last-modified: 2017-07-09 (日) 18:25:58 (105d)